歴史

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私たちが現在使っている富川という名称は「主夫吐」、「長堤」、「樹州」、「安南」、「桂陽」、「吉州」、「富坪」に続いて8番目に使われたわが地方の行政名称であり、1994年に誕生80周年を迎えた。多くの人々は富川が1973年の富川市の誕生から数えて30年の歴史を持つと思っているが、事実はいろいろなことから見てそうではないことが分かる。たとえ行政名としての富川の誕生が私たちの意思によるものではなかったとしても、80年という長い歴史を持つことが分かる。すなわち1910年8月29日に庚戌国恥(よく韓日併合と呼ばれるが適切な歴史的用語ではないので庚戌国恥という)が発生してから4年後の1914年に、日本によって人為的に全国的な府、郡、面の統廃合が断行され、富川という行政名が生まれた。日本は彼らの効率的な植民地政策を遂行するために、同族村化されていた人々の紐帯関係と連携関係を分散•弱化させようとこの措置を断行したのである。

そしてその基準を郡に対しては「面積約40方里(160km。それまでは最大503方里から最小3方里)、戸数約1千戸 (それまでは最大2万8千戸から最小1千8百戸)を限度とし、これに達しない地方は隣の郡に併合する一方、面に対しては「面積約4方里、戸数約800戸」を最低基準にし、これに達しない地方を併合整理することにした。

それまで独自的に発展してきた富平(朝鮮時代は富平都護府と呼ばれていたが、大韓帝国の時期には富平郡と呼ばれた。現在の桂寿洞と玉吉洞を除いた富川市の地域は富平の1/3に当たる)、仁川府の管轄であった済物浦を除く仁川、京畿道南陽郡の霊興面•大阜面、江華道の矢島•茅島•信島•長峰島など広範な地域を一つの郡に合併し、名称も富平から「富」を取り、仁川から「川」を取って「富川郡」とした。1924年発行された『48号』にはこれを「良い富川郡」といって紹介している。そして富川郡の行政組職は以前の31面160洞里から15面84洞里に縮小調整されて長年続いてきており、これを土台として現在の行政組職が成り立つことになった。